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ヴァージン・スーサイズ [映画]

2000 アメリカ
02/08(木) 21:00 -
BSデジ 200|100分

ソフィア・コッポラの初監督作品
夜、お酒を飲んで酔っ払ったあと、録画ものを見ながら眠くなるのを待つ。酔っぱらっているので、まだ見ていない作品を本気見することはできない。だから、一度見たものの中から選ぶ。酔っぱらっているのでストーリーを追うのも面倒で、大抵音楽ものか、もう頭に入ってるような好きな作品の好きな場面を選んで見たりする。
昨日、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を見ていて、つくづく良い作品だなと思った。といっても冒頭の10分くらいだけだが。
で、そういえば、まだ見ていない録画一覧にソフィア・コッポラのものがあったなと思い今作を拝見。
なかなか良い作品。これで彼女の監督作品は「ロスト・イン・トランスレーション」、「マリー・アントワネット」と今作。3本目だが、どれも合格点には達してると思う。

5人姉妹の話でストーリー紹介文のところで、「姉妹のうちの一人が自殺し・・・」とあり、そういう話ということはわかっているからか、ミステリアスな雰囲気が底流にずっとある。最終的に5人とも自殺してしまうということもわかっており、それは紹介文にはなく、作品の序盤でわかるようになっていたのか、それとも、ウィキに「原作はアメリカの作家、ジェフリー・ユージェニデスが1993年に発表した『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』(早川書房刊)である」とあるから、それが目に入っていたのか、とにかく5人とも自殺することが薄々わかっており、だからこそのミステリアスな雰囲気だろう。ミステリアスな雰囲気が作中ずっと前面に出ているような作品とは違ってあくまでも底流に流れているだけで、それが尚のこと、不気味。
だたどうだろうなあ。最後まで見終わるとそういうミステリアスな雰囲気を描いたものとは言えないような感じ。中盤以降その雰囲気が薄れてきており、でも最終的に全員自殺するんだろ、と思いながら見ていたものの、結論的には、若い少女たち特有のわけのわからなさが自殺の原因としているような内容。その姉妹を近所の男の子たち4人が見守っており、そのうちの一人がその事件の25年後から回想するナレーションで話が進んでいくという形式で、20前の少女たちと少年たちの若さゆえの思考を描いた作品なのだろう。
5人姉妹がそれぞれ際立つように描かれてるかといえばそうでもなくて、最初に自殺するセシリア、その後の話をひっぱるラックスのふたり以外はその他大勢的な扱い。少年4人組のほうは名前さえよくわからない。物語の本体のほうには出てきていたのだろうか。

ちょっと前に見た「ザ・ウォーカー」でも使われていたアル・グリーンの「How Can You Mend A Broken Heart」がここでも使われている。
エンディングの使用楽曲クレジットを眺めていたら、その曲のライターがなんとなく目に入った。さらに見続けていくと、、一番最後に出てくる楽曲がビージーズで、その曲のライターとアル・グリーンの曲のライターが同じだった。アル・グリーンにビージーズが曲を提供していたのかと思ったら、実はこの曲、ビージーズがオリジナルでアル・グリーンはカバーなのね

変な演出が目に入った。中盤あたり。姉妹のひとり、ラックスがトリップという男とつきあい始める場面で、トリップを見つめるラックスの目がキラリと光る演出があるのだが、そのキラリと光るのが記号というか模様を目のところに表示させるというもの。実写での光の当て方でやるのでなく、そういう方法を使うところにちょっと驚く。しかもそれが1秒に全然満たない一瞬であり、しかもあまり目立たない小さい模様。映像を言葉で説明するのは難しいが、「スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団」で使われていたような、実写映像の上に擬音語を表示させる的な、マンガっぽい手法。
そういやそのちょっと後、トリップがラックスをダンスに誘い、両親が4姉妹全員を男4人組で合同デートならと承認され、家に迎えに来る場面、トリップがラックスと向き合う。カメラはラックスを顔から下へ。太もものあたりで止まる。と、円形でそのスカートの中身が見える(中の下着にトリップと男の名が書かれている)という演出がある。これ、スカートが捲れるとかじゃなくて、円形の部分だけスカートの中はこんな下着になってますよと映像を合成しているということ。これなんかもマンガっぽいか。
それをもとに考えると序盤で5人姉妹が登場する場面、一人ひとりがストップモーションになり、そこへ手書きのポップな文字で名前が表示されるという風になってた。これもマンガっぽいか。
なんでこれをツラツラと書き連ねているかといえば、強烈なものではないが多少の違和感を覚えたのだ。なんというか作風に合わない手法というか、作品の持つ世界観と合っていないような。というのも基本的に実写映像だけで通していくような作品に思えたので。
さて、ここからはこの作品についてから離れる。
「作品の持つ世界観」とか「作風に合わない手法」とか書いた。これまでもそういうようなことを書いたことあるだろうし、そういう風に思うことはよくある。のだが、これって自己矛盾でもある。だって「作品の持つ世界観」の「作品」というのはその「作品」の始めから終わりまでであり、その中にその手法は使われているんだから。
でもまあ言いたいことはわかるだろうと思う。例えば「七人の侍」に「ワーワー」という擬音語が変な字体で表示されてたりしたらどうよ、ってことだ。いや、これも違うな。「七人の侍」にはそういう手法は使われていないんだから、「もし」それが使われていたら、「作風に合わない手法」であろうし、逆に「もし」ほんとうにそれが使われており、そういう作品として仕上がっていたら、それは上記の自己矛盾にぶつかることになるのだろう

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