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連合艦隊 [映画]

81年の日本映画。
3点。あの戦争(太平洋戦争/大東亜戦争)について知識がないので、またいずれ色々知ってから観ると理解も深まるだろうと思う。
8月15日にあわせ、戦争映画を何本か観ようと思っている。

真珠湾攻撃から始まるアメリカ相手の戦争を史実に沿って描いた部分と、架空の人物を登場させ市井の人々が直面した戦争を描いた部分とで構成されている。
有名な俳優が多数出演。
心に残った人を記しておこう
実在の人物
山本五十六(連合艦隊司令長官): 小林桂樹
小沢治三郎(第一機動艦隊司令長官): 丹波哲郎
伊藤整一(第二艦隊司令長官): 鶴田浩二
市井の人物
本郷家
本郷英一(瑞鶴艦上爆撃機隊の隊長。海軍大尉): 永島敏行
本郷眞二(瑞鶴、のちに大和の航海士。海軍少尉): 金田賢一
本郷直樹(奈良博物館館長): 森繁久彌
本郷歌子(英一・眞二の母): 奈良岡朋子
本郷陽子(英一の婚約者、後に眞二の妻): 古手川祐子
小田切家
小田切武市(海軍兵曹長。大和工作科分隊班長): 財津一郎
小田切正人(海軍中尉。特攻出撃した戦闘機搭乗員): 中井貴一
小田切照代(正人の姉): 友里千賀子
小田切美代(正人の妹): 里見奈保(鶴田さやか)
小田切加代(正人の妹): 川島光代

市井の人間の部分では中井(デビュー作だそうだ)、永島、金田ともに若い兵隊役を好演。
古手川の表情が素晴らしい。英一と結婚し戦死後眞二と結婚するという役
英一の出征直前に結婚をするが、新婚旅行の安芸の宮島で、英一は突如命令が下ったと置手紙をし宿からいなくなる。英一と眞二との間では軍学校に入った英一、学問の道を進もうとしていた眞二との対比が描かれ、「死んでいく者、生き残る者」というようなことを意識させるせりふも頻出する。
しかし戦況により眞二も軍隊に入り、兄弟は同じ船で再会。英一は手紙を眞二に託す。
英一は戦死し、奇跡的に眞二は生き残り、その手紙を父親に見せる。父親の手から母親、そして陽子の手に。
そこには眞二に向け、陽子を美しいままにしておいた、陽子を頼むと書かれていた。「美しいまま」というのは宿からいなくなった件が伏線となっている。
そして眞二は自分は陸上勤務になった(死から遠のいた)こともあるし、この手紙どおりにしたいと陽子に求婚。そのときのなんとも複雑な古手川の表情がよい。特にそれまでの英一とのほんの一瞬といっていいほど短い間であったが幸せな時代の快活な屈託のない笑顔との対比が素晴らしい。
正月休みに安芸の宮島で求婚の返事をくれと言い残す眞二だが、大和に乗船することになってしまう。
安芸の宮島で約束(求婚)を反故にしようと言い出す眞二だが、陽子は「男の人たち、自分の都合でどうにでもできるお人形なの」と叫び抱きつく。「お人形は嫌」に眞二は「結婚しよう、今日この場で」と。ここはちょっと安直かもしれない。「俺は約束する。生きて戻る」と眞二は言うものの、結局眞二も戦死するのである。
ラストシーンでは海岸にいる森繫と子供、そして少し離れて古手川。これはつまり眞二ともほんの短い間しか逢瀬の時間はなかったが、子供を作ったということであろう。

史実に沿って描いた部分では真珠湾攻撃・ミッドウェイ作戦・レイテ作戦・沖縄作戦(戦艦大和の最期)と描かれる。
登場人物も多く、また軍隊事情に詳しくないので、上下関係がわからなかったりして理解がイマイチな部分多し。

ラストで谷村新二の『群青』なる主題歌が流れるがちょっと不要に思えた。作品にハマった音楽というのは映画の質を上げる効果があるが、大したことない音楽だと不要に感じる。

戦争について、そしてとくにあの戦争(いわゆる太平洋戦争)について色々思うところもあるし、勉強不足のところもあって考えがまとまらない部分もある。そういう状況にまたひとつ材料をもらったという感じがする。
「軍部が悲惨な戦争に突き進んでいった」「いや、国論がそうだった」とか「侵略だ」「いや祖国防衛のためだ」とか「崇高なる自己犠牲だ」「無駄死にだ」とか「魂を生き残らせるために特攻を」「意味がないことのために無駄死にさせるわけにはいかない」とか。ひとつの事象に2つの意見がぶつかるとき、その両論をある程度理解できる。「魂を生き残らせるために特攻を」「意味がないことのために無駄死にさせるわけにはいかない」、これは戦艦大和が沖縄へ特攻し最期を迎える前の会議での会話であり、当然後者の意見にほぼ賛同するものの、2割程度、いや1割程度かもしれないが前者も理解は出来る。もちろんその会話をしている人物の背景などがあり、それらによってもその理解度は変わるのであるが、言葉だけ取れば、精神を捨ててまで生き永らえることは後に悲惨な結果をもたらすことにもつながる、ということもある。
作品中若い兵士が長門裕之演ずる瑞鶴飛行隊整備士長の前に表れ、整備士たちは最初「頼りないなあ」などとバカにしたような態度を取っているのだが、兵士が特攻する旨告げると途端に態度が改まるという場面にもグッときた。だけど特攻という作戦はやはり愚劣であろう。
気高い自己犠牲は十二分に理解できるが、それを賞賛し反論を許さず、それによって愚劣な作戦が擁護されるというのはおかしい。そういえば原発事故のときの自衛隊による決死のヘリからの水かけ作戦とも通じるね。あれが評価されてアメリカ軍が本気になったという報道を読んだ覚えがあるが本当かどうか。
実際、じゃあそういう中にいたとして、なにができるのだろうか、というとこれまた難しい問題だ。例えば愚劣な作戦を実行するように命じられたらどうするか。愚劣な戦争とわかっていて、その戦争に突き進む国論に抗することは可能か。難しいんだよなあ
持論だが、もし国家の役に立ちたいと思う人がどこかの組織に入ったとき、常に命ぜられる仕事を「これは国家のためになるかどうか」を判定することは現実的か。さらに言えば、その判定が間違っていないと言い切れるだろうか。重い役職(総理大臣とかそこまではいかないにしてもある程度そういう事案に影響を与えられる役職)なら、常にそれを考えなければならないだろう。また国家公務員は下の役職の人までそれを考えなければならないと思う。しかし国家公務員が自分の省益だけを考えてのみ行動しているというような批判は最近非常に多い(自分はそうは思わないけど)。そういうとき制度として、ひとうひとつの省が国家のために働くというものになっていれば、そこに所属している省員は「国家のためになるかどうか」を考えなくてよくなるのだ。自分が省益を考えて働くことがそれすなわち国家のためになるという制度になっているのだから。
それと同じようにどこの組織に属するにしても、その組織自体が「国家のために働いている」かどうかが自分の命ぜられた仕事が「国家のためになっている」かどうかの判定基準にするしかないのではなかろうか。もちろん一般企業はほとんどがそんな風になってはいないだろうが、そうなると仕事においてはあまり過剰に自分が国家の役に立ちたいという願望は叶えられないだろう。
仕事をするというときには集中力が必要であり、「国家のために」とかそういうことは一旦頭から外さないと効率が悪くなるとかそういう弊害がある。少なくとも国家の省庁はそういう風になっていてくれないと困る。
ちょっと話は変わるが政治もそうなんだよね。一人ひとりの議員を徹底的に知ることも重要だろうが、市井の人間にとってはそんなことを調べる時間も労力もない。興味がないわけでないが、そればっかりやってるわけにもいかない。そういうとき既存政党の時間をかけて築き上げてきた知名度というのがある程度役に立つわけで、投票する側は政治家を「信託」信じて託しているのだ。であるから、その政党自体が「国民政党」であるなら、国家のためにのみ働いていてほしいし、その政党のために働くことがイコール国家のためになるという等式は崩してはならない。国民政党でない場合(宗教のための政党とか共産主義のための政党とかね)は別だが。

追記
佐藤允と中谷一郎が脇役として出ているが、ちょっと顔や雰囲気が似ている。どちらも脇役でよく見る顔のような気がするが。といっても中谷氏は脇役とかよりも、風車の弥七としてのが有名だ。
調べてみると、この二人は俳優座で同期だそうだ。
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